不良犬と方正犬


    思えば強慾な犬であった。私が菓子なぞを食べていると、目覚めているときはモチロン、眠っていてもやにわにパチリと目を開け私の傍らに取り澄まして座りやがる。穏便に分けてもらおうというつもりも少しはあるのだろうが、私が菓子を落としてしまったりすると一陣の風の如く、まるきりケモノといった身のこなしで食らいつき、それでも飽き足らぬ様子でまた私の近くで取り澄ます。満腹を覚る器官がオシャカになっているのか、餌を退治た後でも恬然として私には食物をねだり、犬売り屋で超小型犬という触れ込みで売られていた筈なのに、いまではすっかり中型犬くらいの大きさになっている。そのくせ安物の餌などには頑として手をつけず、早朝によそった餌を日が暮れてからようやく食べ始めたりする。それに困った母が少し高価な缶詰のささみかなんかを購ってきて、ドッグフードに混ぜていたが、丁寧に選り分けてささみだけ食べていた。徒労。とんだ美食家である。まったく憎たらしい。畜生風情が。更にあの犬はひどく臆病であった。剝啄の声を聞きつけるや否やびょうびょうとやりはじめ、客人が玄関に這入ってくると増して食らいつかんばかりに吼える。しかし見かねた私が抱き上げ客人に近づけてやると、情けなく怯懦し終いには小便を洩らす。カラのペットボトルや、見知らぬオモチャすらも恐れ、明後日の方を向きながらも横目でしきりに相手の出方を窺っている始末であったし、食べるかなと思い興味本位で抜けた髪の毛を差し出してみたら、必死で飛び退いていた。気を許した家の者には権柄づくに振る舞い、時にはしつこいくらいに甘え、かと思うと触れただけで唸ったりしやがる。まったく内弁慶の気分屋である。犬とは概してそのようなものなのだろうか? 先代の犬は至って従順で、誰が触ろうとメッタに吼えず、幼年の私が乱暴な遊び方をしても、飄然と躱して一米先で私を待っているような調子で、このナナという犬は私が小学生の頃に死んでしまった。母が中学生のときに神社で拾った犬だから出生は判然としないが、それでも間違いなく十九年は生きたそうだ。晩年は見るに堪えぬほど衰え、飯も碌々受けつけぬ有様であったのだが、ついにある寒夜に私と母が様子見にいったら、白目で硬直していた。それを聞きつけた叔母が自動車を飛ばして駆けつけてきたのだが、扉を開けて這い出てくる叔母の泣き方が異様極まりなく、ほとんど笑っているような慟哭であったため、頑是ない当時の私は「アベコベだ」とへらへら笑っていた。叔母は十中八九寿命であるのに、「私のせいだ。私のせいだ。」とわけの分からぬ自責の念に苦しんでいた。かくの如く取り乱した叔母に対して、祖父と祖母はやけに落ち着いていて、こればっかりは仕方ないのだと行動でもって言っているようであった。身近な親族の死というものを経験したことのなかった私は、そういうものなのかと悲しみつつも楽観していた。母の様子はまるで覚えていない。父はそもそもいない。
ケモノの粗暴さを寸毫も感じさせず、自若として落ち着き払ったまま死んでしまったナナと、横暴で憎たらしい小心者のワガママ犬の、この両極端しか見ておらぬから、私には未だアタリマエの犬が分からぬが、私はなにかにつけて甚だしい者の方が好きである。