宿替えの陥穽


    アアラ、酷いねえ。アンタ、こりゃ酷いよ。まったく参っちゃうわよねえ、ここまでされちゃうと、サスガにねえ。たしかに入居するときに「好きに生活して構わないからね」と言ったのはワタシだけどねえ、限度ってもんがあるでしょう。ほら、壁もなんなのアレ。なんて書いてあるの。ワタシには「臓器ありがとう」って書いてあるように見えるんだけど、まさか「臓器ありがとう」だなんてねえ。ワタシだってもうすっかり老眼になっちまってるから、見間違いだとは思うけどねえ。ア、やっぱり「臓器ありがとう」って書いてあるのね。あんだけ大きく書かれてたら、いくら老眼とは言えど見えるもんだねえ。まあ臓器がありがたい気持ちはワタシにも分からなくもないけどねえ。ワタシだってほら、もう若くないから毎日のように病院行くようになっちゃったんだけどね、いろんな臓器悪くして分かるのよ。人間、臓器なくちゃやってけないってねえ。しかしねえ、借家の壁に書くもの? アンタ、「鉛筆で書いた」とは言い条、あれじゃあしっかり跡は残っちゃうでしょう。たとえうっすらであったとしても、「臓器ありがとう」って書いてあったと知られちゃマズいのよねえ。世間体ってものがあるでしょう。ちょっとアンタ、ミルクティー飲んでんじゃないよ。人が文句つけてるんだからさあ。ところでアンタ、床に無数の穴ぼこが明いてるのはアンタがやったわけ? そうよねえ、前ここに住んでらした方は床使わない人だったから、床に穴ぼこが明く筈がないのよねえ。しかも無数にねえ。アンタ、フローリングだってタダじゃないのよ、分かる? 分かるわよねえ、アンタだって立派な大人だものねえ。この穴ぼこ深さはどれくらいなんだい? それによって埋めるか、張り替えるかが変わってくるのよねえ。アアラ、「とことん深い」のね? とことん深くちゃあ、埋めた方がかえって費用がかかっちゃうかも知れないねえ。ウーン、一体どうしてなの? どういうわけがあって、借家の床をとことんまで掘っちゃったわけ? しかも無数にさあ。「モグラがちょっと……」ったってねえ。アンタ、ここ動物の飼育は許してないんだよねえ。はじめに言わなかったかねえ。そうよねえ、言ったわよねえ。「飼っていたのとは違う」って言われてもねえ。じゃあなに、モグラが闖入してきて勝手に思うさま掘っていったってことなの? 床を? 外でもできることなのに? やや、「モグラが趣味でして……」って、そりゃアンタ、つまりは飼ってたってことでしょう? 駄目よ、言い逃れは。潔くないもの。男は潔くなくっちゃ。ワタシは潔い男が好き。それじゃあ、壁も床もアンタの勝手でこんなにしたってことでいいわね? もうこの調子じゃあ、ふたつとも新調しなくちゃだから、宿替えするなら四千万、ちゃんと耳揃えてワタシのところに持っておいで。そうでなくちゃ、棍棒でハチャメチャにしてやるんだから。まったくもう。アラ、そのミルクティー腐ってるじゃないの。「美味しいので……」じゃないわよ。アンタ、おなか壊しちゃってもいいの?