あずかり知らぬ根性比べ


桜散り、綿毛が雀躍しはじめた頃、ようやく鬱然たる季節がやってきたことを知り、おれは少し戸惑っていた。陽は調子づき、まったく麗らか麗らか。光彩陸離たる羽虫や塵に、つまらぬ駅までのだらだら坂も鮮烈たる様相である。行き過ぎる人々の顔もなにやら浮きうきしているようで、アワアワしていたおれもまんざらでない気分になってしまって、次第に相好も崩れていった。見知った空き地の日陰で、凝然と構える猫の姿があるのもうれしく、歩調も自然と早まる始末。駅へ着き、切符を買って、尋常の如く改札を通った際、石を放られた鯉のように、切符をのみ込んですぐに吐き出す改札の様子が、やけに面白く思えた。ややもすると、改札は鯉なのではあるまいか。二六時中灯る蛍光灯や、駅の階段の決められた区分とアベコベに歩く子細顔の馬鹿、あふれたゴミに蝟集する蠅などに少々閉口しながら、しかし麗らか麗らか、今日はひとまず構わぬと、磊落なことを思っていた。やがて傲然と電車があらわれ、ホームの人々は騒然と、やけに剣呑な足取りで半歩進む。停車するまで待てば好いものを、半歩進むんじゃない。いやいや、麗らか麗らか。電車から数人の男が降りてきた。春だから、男だけなのだろうか。途端におれは春にやられて腑抜けになってしまった。なにかに駭魄するかのように呆けていて、中々電車に近づけぬままでいたのだが、発車のベルを聞いてやっと正気に戻り、周章して妙な匂いのする車輌に乗り込むと、トラバサミの如く、おれの足を捕えんばかりにドアが閉まった。春は皆んな舞い上がっていて、油断ならぬなと太息し、それから手摺りにもたれて、二十分ほどガタゴトと揺られながら気を張って佇立していた。春といわず、年がら年中腑抜けているような車掌の声が目的の駅を告げたとき、おれはすっかり疲れていた。気を張っていたからだけではない筈である。春は柔和らしく悠々と漂っているが、実情はさにあらず、なんのためかは分からぬが、人々の体力を見境なしにネコソギ強奪していくのだ。まったく油断ならぬ。電車が止まると、今度はトラバサミに冷や冷やさせられぬように真っ先にホームへ飛び出た。そして改札へと続く階段までの道々、自動販売機で水を購い、安心。おれは水を持っていると安心するのだ。福々たる心境のその折に、未だ発車せぬ最前まで乗っていた電車を、なんの気なしに見遣ったのだが、偶々目の合った乗客があった。すぐに目を反らすだろうと思っていたが、なにやら余裕のある憎たらしい表情をして、こちらをじっと見ていた。はて、如何にあのような顔をしているのだろうか、と他の乗客に目を移すと、またも憎々しく綽然顔。その横の男女も、後ろの老人も、子供も、果ては広告の俳優すらも、おれに向けた目元にあらぬ意趣を含んでいた。至極業腹であった。麗らかなことなど打ち忘れ、すっかりアタマにきたおれは、負けじと種々の乗客を睨めつけたのだが、彼らは至って物怖じせず、かえって余計にヘラヘラとおれを見つめていた。まるで降車したおれを落伍者だと思っているかのような目であった。知り合いと話しながらおれを見ている男は、そのとき「おいおい、アイツこんなところで脱落したぞ」というようなことを言っていたかもしれぬ。この野郎。電車で先へ行くことがそんなに偉いのか。馬鹿どもめ。おれはこの駅に用事があるから降りただけで、断じて逃散するわけではないのだ。よく分からぬ勝負におれを巻き込んでくれるな。第一お前らはそんな顔してどこまで行こうというのだ。古狸めが。春だからといって調子に乗るなよ。そんなに先へ行くのが得意ならば、一生電車を降りるんじゃないぞ。くそが。いつか殺してやるからな。などとおれは思い、忿懣遣る方ない心持ちになって、電車が行ってしまってから、購入したばかりの水を頻りに触っていた。
おそらくあのときに、おれが水なんかじゃなく、立派な拳銃が持っていれば、やつらにも嘗められずに済んだのだろう。馴れているとは言い条、おれ自身も水よりか拳銃の方が心強く思う。いくらはやく電車を降りても拳銃を持っているやつが結局は勝つのだ。総体に人生は拳銃を持ってさえいれば解決することがあり過ぎる。拳銃ひとつあればいいのだ。だからおれは今日から五百円玉貯金をする。五百円玉が万と貯まったら、拳銃を買う。法など知らぬ。やつらの命は、おれが拳銃が買えるだけのお金を貯めたら終いなのだ。覚悟しておけよ。麗らかがなんだ、春がなんだ。畜生。