変身


   苦しげに呻きながらおれの頬に当てがった女の爪が汗で滑って偶々おれの頬を引っかいた。傷口は唐突に外気に曝されて驚いたように血を滲ませながら、ぴりぴりと震えていた。おれはくっついていた女を押し退けて洗面台へと駆け込み、気が狂ったかのように頬をゆすぎ続けた。爪には数えきれぬほどの得体の知れぬばい菌がこびりついていて、放っておくとどうなるか分かったものではない。知らぬ間に緑か黄土に変色した頬が腐り落ちて、歯や歯茎が丸見えになってしまうやもしれぬ。痩けた石鹸を使い切ってから寝室に戻ると、女はセーターの一枚も羽織らずに待っていて、「冬だから、堪えるわ。」などと言っておれを再び蒲団の中へ招じ入れたのだが、偶然とはいえ最前の粗相をまったく意に介さぬ女の様子に、おれは腸が煮えてしまい、かといって虐待を好まぬ性質であるため、むやみに暴行を加えたりはせずに、「謝るくらいなんてことないだろうよ。」と言って、女に背を向けたのである。女はおれの機嫌を損ねたことにようやく気づいたようで、こういうときに謝罪しようとてんで無駄であると知っているだろうに、あわてて早口に何度か詫びを入れてきたが、やはりおれが聞く耳を持たぬと分かると、すっかり不貞腐れてしまったらしくおれの背後でやおら自慰を始めた。おれは女のその見事な機転に感心してしまったが、ここで一変して女の行動を称揚するのもみっともないと思い、無視を決め込んで眠りの糸口を探していたのであるが、すぐ後ろからあんななまめかしい吐息が漏れ聞こえてきたら、情慾は騒げど、肝腎の眠気はだんまりを決め込んでしまう。おれはすっかり眠りを諦め、こうなれば寝返りを打つふりをして女の姿を盗み見てやろうと画策し、わざとらしい呻き声を上げながら、体を反転させたのであるが、一体こんなことありえるのであろうか。女の姿が見えぬのである。はじめは眼病を疑ったが、失明したというわけではなく、蒲団の横に置いてある座机と本棚、それとカーテンを閉めきった窓ややにの染みついた壁は尋常の通り明瞭に見えるため、その疑念は自然と霧散した。はて、女は帰ってしまったのだろうか。しかし未だに女の吐息や自慰の音ははっきりと耳元で鳴っている。まるでわけが分からぬ。無理やり都合よく考えるならば、どうやら女は肉体を消失してしまい、自慰そのものになってしまったようである。あまりに阿呆臭くて少し笑ってしまったのだが、頬の筋肉が動いたせいで生傷が痛み、途端に物悲しい気持ちになった。