狂ったケモノ


    海外に比べて狼害の少ない日本で、ニッポン固有の狼が絶滅したのは、当時蔓延していた狂犬病が大分関係しているだろう。存外温厚な尋常の狼と違って、病狼は大いに兇暴で、だらんとした目で人間を見つけるや否や、奇矯な鳴き声をあげながら飛びかかったそうである。だから人間たちに殺された。しかし病狼といえどこれは普段と変わらず、とんでもなく素早く、野生らしい手練手管を弄して攻撃してきて、ほとんど捕らえようがなかったために、人間が襲われて撃退した例は数えるほどしか見当たらず、その微少たる勇猛な伝聞の中でも噛まれながら撲殺するものの、あっけなく感染し発狂の末にやがて衰弱して死んだ例などがあるので、病狼と逢着した場合は、もうどうもならんかったようだ。蛮勇な馬鹿が狼に意気横溢せんばかりの形相で挑み、間もなくヤラレ、狂犬病に罹ったり、痛手を負って死んだこともあったらしいが、これは自殺とさして変わらぬので、仕方がない。そもそもおれが人間ごときに退治される筈がないのだ。畜生、棍棒なんぞで殴りやがって、ぶっ殺してやらあ。たしかに頃日のおれたちは具合が悪い。カラダが熱くてどうも頭が働かぬし、ふらふらしてたまらん上に、疳の虫が騒いで分別なくなんでも襲ってしまう。先日などはやけに腹立たしいやつが目の前にいたので、牙を剥いてかみ殺そうと突進し、ようやくそこでそのトサカにくる相手が松の木であることに気がついた。大木に思うさま頭つきしたせいで、数日はくらくらと不便で仕様がなかった。おれの仲間は気がついたら海を襲っていたらしく、海水でしとどに濡れて震えていた。仲間とは言い条、あいつはおれのことを軽視しているらしい。こともあろうに牙を見せ威嚇してきやがる。女共もおれとの交尾を峻拒する。というより、まったく取り合ってくれぬから、おれが損なわれている感じがして、業腹である。少々気分はわるいが、なんとなく居た堪れないので、山路を歩いてみることにした。時折目端ではためく苛立たしい影に突進しながら、随分と長い間歩いたものだ。辺りがにわかに開け、そこが人里だとすぐに分かった。市井にはぼろを着た女が歩いてどこかへ向かっていた。くそが。どこに向かってやがる。あんな行くあても分からぬ女は殺してしまおう。おれは鼻を鳴らし、猛る気持ちを寸毫も治めぬまま、女に向かって駆けた。すると足音に気づいたのか、女はちらとこちらを見て、やにわに怯懦に顔を歪ませながら鋭く悲鳴をあげたかと思ったら間もなく絶入した。なんじゃそりゃ。下らん、気絶なぞほとんど死んでいるようなものである。わざわざ殺すまでもあるまい。おれは失速し、女の周りをくるくると調べた後、再び森へ引き返した。丁度その折、見知らぬ狼が木下闇から飛び出してきて、大いに喫驚した。やけにぞんざいなアイサツだなと思いながら、忿懣たる気持ちを鎮め、通りがけに目礼しようとしたら、見知らぬ狼はおれに向かって全身を投げうち体当たりをしてきた。しばらく目の前がぱちぱちとシロクロして、中々起き上がれずにいると見知らぬ狼は逡巡もせずおれの首元に噛みついてきたやがった。共食いなぞ、倫理に反する。しかしこの狼にはそんなことまるで関係ないようである。というのもおれは狼なんぞではない、ただのつまらぬ猪だからなのである。所詮、眼前で躍る狼の狂態に竦んでしまうような、大いにつまらぬ猪なのである。自らを病狼だと思い込んで乱暴狼藉を働いたところで、そうした一切の尽力の出口は落胆であるとはなから決まっていて、それはやはりおれが狼ではないからなのである。おれのような猪風情が狂犬病に罹る筈もなければ、人を食らうわけもないのだ。狼の雌と交尾ができるわけがないのだ。従ってこの狼は倫理に背いて同胞を食らっているのではなく、ただ狩りをしているだけなのである。